今日、引っ越ししてから初めて実家に帰る。むしろもっと早く帰る機会があるだろうと思っていたのだが、新居の2畳間が案外居心地よく、今日まで特に帰る必要がなかったのだ。
昼、哲学の授業を受けに講義室へ向かった。かなり久しぶりの対面授業である。全学教育棟の前では、いくつかのサークルが賑やかに新入生を勧誘しており、学生たちの群れがあちこちに散在してぎゃあぎゃあと大学生特有の姦しい話し口でもって談笑している。どうして、こうも大学生というのは群れを作って騒ぐのか。1人で騒ぐのは良し、群れで静まるのも良し、しかし群れで騒ぐというのは、最もダサいし意味不明だし、何が楽しいのか端的に分からない。個の埋没にエクスタシーでも感じるのだろうか。
講義室につくと、すでに他の学生が席に座っていた。多くは2人連れや3人連れで、1人だけという者は少ないようだった。僕はというと、他専攻の授業というのもあったが、当然1人である。どうやったら授業を一緒に受ける人間が手に入るのか、よく分からないまま結局この歳になってしまった。いや、正直1人が一番心地いい(隣に知り合いがいると気が散る)のだが、こうもみんな仲間と連れ立っているのを目の当たりにすると、孤高と孤独の境目もあいまいになってくる。
電車で家に帰る。2週間ぶりの路線を走り、その景色が明らかに東山と違うことに改めて気づく。だが、実家の景色は意外と懐かしく感じない。家の様子を見ても、2週間ぶりとは思えないほど違和感がない。だが、フォークを探して全く見当違いの引き出しを開けてしまった。影響は全くないわけではないようだ。
今日帰ってきたのは、地元の友人と食事をするためだ。「中華ダイニング秀丸」という中華料理屋で、中学来の友人2人と夕飯を食べる。この店は馴染みの店で、店主の方とも仲良くさせてもらっている。いくらか前に生まれた彼の息子が、いつの間にか流暢に人語を話すようになっていて、時の流れを感じた。
以前友人と旅行に行った際に買ってきた高いワインを開ける。中華料理に合う、と紹介されたのだ。かなり強い酸味とフレッシュな香りのある辛口のワインなのだが、確かに濃い味の料理と合わせるとしっかりと本領を発揮してくれた。
家では、父がトマトのペンネとアヒージョを作っていたので、それも少しつまんだ。僕が帰ってくるのに合わせて好物を作ってくれていたようなので、夕飯を外食で済ませてしまったことを申し訳なく思った。
2週間シェアハウスをしてみて、家族に優しくされることを苦手に思う理由が分かった。家族に優しくされることには、理由がない。それに対し、同居人に優しくされることには、彼らが本質的に僕と全く関係のない他人だからこそ、理由がある。全くの他人が利害関係で結ばれているとき、そこには理由が存在し、その理由のゆえに、優しさの程度には限界がある。しかし、家族の優しさは利害関係ではなく、理由もなく、程度の限界もなかなか訪れてくれない。家族に優しくされることを、純粋に利害の観点から喜ぶことは難しい。自分というものを孤独の内に煮詰めてきた僕にとって、家族はあくまでも他人の始まりである。だから、たとえ家族という血を分けた存在からだとしても、理由なき優しさは距離が近すぎて、苦手に思うのかもしれない。他人とは、ずっと敬語で話すくらいの距離感がちょうど良く感じる。
久しぶりに実家で眠る。8畳あるこの部屋を眺め、しかし空間的無駄の存在を認めざるを得ない心情だ。昔見たアニメの中で、「人間が支配できる空間の広さは4畳半が限界である」などと言っているキャラクターがいたが、実際には意外と2畳程度で手一杯なのではないだろうか。果たして、このふんだんな余剰空間は僕に快眠をもたらしてくれるのだろうか。要検証であろう。