書いた人:江坂
やはり古代アリーナはなくなるらしい。
それだけではなく、そこに新しくできる場所は、箱だけという感じで中身(ソフト)が後回しになっていることが明確な様子を、インターネットで発見した資料で見た。
名古屋の体質なのか、この土地ではとにかく箱(場所、空間)のみをいい雰囲気でつくっているものが多いように感じる。中身や実際の運用はともなっていなく、あとは勝手にいい感じになるだろうという思惑が垣間見えるものだ。それは、「ある空間において、そこで誰がどういう状態になることを望むかが不明瞭で、かつその責任者もいない」場所と言ってもいいかもしれない。
それらはたいてい、いままでそこにあったもので市民によって利用されたり愛着を持たれていたものなどはほとんど継承されず、「新しい」ことを目指して刷新されていく。これは個人的に、文化のあり方やでき方に反すると感じるので、気に食わないことが多い。
久々にそういった出来事を近くで見て、気持ちを取り乱して、やぶれかぶれになってしまった。シェアハウスつみきのリビングで、他の人もたくさんいたのに。
意味なんかないさ ただ暮らしがあるだけ
星野源『恋』
集団や、環境や、この世界に意味(目的)はなくて、ただ生き物の暮らし(個体が生きのびようとすること)があるだけで、いま自分に見えているものはその結果でしかない。それは単に遺伝子が利己的であるだけなのだから。
名古屋大学を休学していたとき、このフレーズを聞いて、自分が情報文化の学徒であることを思い出した。そしてその(自分にとっての)本当の意味を理解したはずだった。
一方で、だからこそ、遺伝子が引き継がれていくことを感じさせないこの名古屋という土地に、自分はいつも腹を立ててしまうのかもしれない。
これは今日だけでは書ききれないから、またいつか続きを書くことにする。
___本当は今日は、先日にマグロの頭をさばいたせいでまだ手が微妙にマグロ臭いとか、東山の四谷通りにある靴修理屋に行って敷居の高さを感じたこととかを書こうと思ってたのに。